大阪家庭裁判所 昭和41年(少)10404号 決定 1967年3月13日
少年 T・T(昭二五・二・八生)
主文
この事件について審判を開始しない。
理由
検察官送致にかかる非行事実は、少年は昭和四一年一〇月○○日午後一一時頃大阪市港区○○○○○町○丁目○○○番地自宅二階六畳の間において実母T・N子(当五一年)を引き倒しその頸部を素手をもつて扼圧し同女を窒息死に至らしめ殺害したものであるというのである。よつて調査判断するに検察官送付にかかる本件証拠資料によれば少年が右記載のとおり(但し、T・N子は当時満五〇年)の犯行をなしたことは認めることができる。
しかし、鑑定人前崎孝一の鑑定書および大阪少年鑑別所検査医杉山佳行作成の少年に対する健康診査簿に前記証拠資料を総合して考えれば、少年は本件犯行当時精神分裂病(破瓜病型)を罹患しており、その知的能力は正常で意識障害は存在しなかつたが、その思考は滅裂的でその感情は鈍麻しており、注察妄想、関係妄想等の一連の関係性妄想と思考奪取、思考化声、作為体験等の特殊病的体験を有していたもので、本件犯行は、少年がその動機について「自分ではそうしたくないと思うが絶対的にそうせんといかんようにしむけられた感じで、急に殺さんといかんという感じがした云々。」という旨供述しているように、前記のような精神分裂病に基く滅裂した思考、鈍麻した感情、特殊病的体験によつて衝動的に発動された行為であつて、正常な精神状態において為されたものではなく、しかもその程度は当時事物の是非善悪についての判断能力はあつたとしてもそれに基いて意思決定することは不能な状態にあつたものと認めることができる。
そうだとすれば、少年の本件犯行は刑法第三九条第一項にいわゆる心神喪失の状況下になされたものといわなければならないので、少年は少年法第三条第一項第一号に該当するということができない。
そこで次に少年が同条第一項第三号に該当するか否かについて考えるに、少年には同号イないしハの虞犯事由はなく、ただ同号ニのそれが問題であつて強いて言えば少年には自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖があるといえないこともないが、右性癖は少年の罹患している精神分裂病に基くものであつて、同病の治癒とともに消失するものであると認められるところ、少年はすでに昭和四一年一一月一四日精神衛生法第二九条による入院措置によつて貝塚市水間五一番地水間病院に収容され主治医前崎孝一による治療を受けており、同人の鑑定書によれば精神科特殊療法の遂行により少くとも不完全寛解に達せしめて自他に危害を及ぼすおそれがなくなる程度まで病状を改善することは可能であり、またその程度の病状が改善されるまで当分の間少年に対する措置入院が継続される見込であるということが認められるので、少年は同号ハにいう性癖があるとしても、少年の性格ならびに現在および近い将来の環境に照して将来罪を犯すおそれがあるものということができず、少年は同条第一項第三号にも該当しないといわざるをえない。
よつて、調査の結果少年を審判に付することができないことが明らかであるので、少年法第一九条第一項を適用して主文のとおり決定する。
(裁判官 松尾政行)
参考一
尊属殺人被告人T・Tの精神鑑定書
私は、昭和四一年一一月二一日大阪家庭裁判所判事補松尾政行より、尊属殺人被告人T・Tに関し、下記事項の鑑定を命ぜられた。
鑑定事項
一、右少年の本件犯行時および現在の精神状態
二、右少年に対して、今後必要とされる医療措置とその効果
よつて、鑑定人は同日より鑑定に従事し、一件記録を精査すると共に、被告人は既に昭和四一年一一月一四日より、大阪府貝塚市水間五一番地精神科水間病院に精神衛生法による措置入院中であるので、昭和四二年二月一〇日迄の間、被告人の精神状態を検診すると共に、一件記録および参考人の陳述を参考として本鑑定書を作成した。
陳述を求めた参考人は、T・S、T・M、T・K、岡○治である。
犯罪事実(起訴状による)
一、被告人 本籍 大阪市港区○○○×丁目○番地
住所 大阪市港区○○○○○町○丁目○○○
職業 無職
T・T
昭和二五年二月八日生
二、犯罪事実
被告人は、昭和四一年一〇月○○日午後一一時頃、大阪市港区○○○○○町○丁目○○○、自宅二階六帖の間において、実母T・N(当年五一歳)を引き倒し、その頸部を素手をもつて扼圧し、同女を窒息死に至らしめて殺害したものである。
診察記録
家族歴
実父T・S、長兄T・M、弟T・Kおよび被告人自身の陳述によると、其の家族歴は次の通りである。
(別紙第一号参照)
実父T・S当六〇歳は、大阪市港区○○○○○町○丁目○○○(借家)に居住し、一〇数年前から現在迄履物商を営んでいる。店は二ヶ所に於て借家して営業して居り、一は○○屋の屋号で、港区○○○町○丁目に在り、二は○○商店の屋号で、港区○○○○町○丁目に在る。何れも自宅から離れているので、通勤形式を取り、零細企業なので雇人は置かず、○○屋の方は実父T・Sが担当し、弟T・Kが午後から夜にかけて手助つて居り、○○商店の方は、実母T・N子と長兄T・Mが担当して働いていた。毎日午前八時三〇分頃から午後一〇時頃迄働いていたが、収入は月額数万円位で裕福な生活を営むことは出来なかつた。
本事件発生後は○○商店の方は経営不可能となり閉鎖して○○屋の方のみ経営している。
斯る悲境にも拘らず、比較的楽天的明朗な態度を持して一家の支柱となつて居り、近隣の評判も良い。飲酒を好まず賭博や勝負事に凝る等の習癖が無く真面目な態度を持している。
性格は明朗、楽天的、社交的であり、体型は闘士肥満混合体型で、健康状態も良好であり、既往に著患を知らない。
実母T・N子当五一歳は、福井県足羽郡○○○村の産で、昭和一七年三月二四日、父と結婚している。当時父は二九歳、母は二〇歳であつた。N子の実家は、大阪市内で金物荒物屋、足袋販売、砂糖等販売等幾つもの店を所有して可成り手広く営業していたが其の後両親共死亡している。N子は、旧制○○女学校を卒業して居り、父Sは当時N子の父の店の雇人であつた。父母は結婚後もN子の親許の店の手伝いをして居り、一〇数年前に独立して履物商売の店を持つ様になつた。N子の同胞は初め八人で、現在一人の兄と五人の妹が大阪市内に居住している。N子は元来健康で著患を知らず、出産以外に医師の診療を受けた事がないという。体型は細長型で、性格は、口数少く社交的で無いが、几帳面で経済観念が強く、子供達の躾に口喧しい方であつたので、子供達からは煙たがれられていた由である。
長兄T・M当二三歳は、脳性小児麻痺に罹患して両下肢不全麻痺を呈して歩行困難で一人前の生活が出来ない。本事件発生迄は母の手伝い程度に○○商店の経営に参加していたが、最近は主として家に在つて家事手伝い程度のことを為している。知能は通常で、両親の介助によつて大阪市西区○中学校を卒業して居り、未だ未婚である。体型は闘士体型で、性格は温和であるが、無口、陰気な所がある。健康状態は良好で、既往にも著患がない。
次兄T・H当一九歳は、昭和四〇年九月東京に求職に出たままその後の消息を絶つている。学歴は小学校四年中退で(知能は通常であるが、後述の理由によつて就学を怠つたままに至つている)、以後、自家の店の手伝いをしていたが、昭和三九年から約一年間大阪市道頓堀筋の食堂「○頓」の料理人見習いをしていた。体型は細長体型で、無口、内向的、非社交的で、母に近似の性格であつたという。健康状態は健康で既往症にも特別のものはない。
Hは元来読書を好み、殊に推理小説の類に凝り、小学四年生になると、自宅の屋上に上り屋根に座蒲団を敷いてそこに寝転んで主として推理小説に読み耽るというようになつた。またその頃、江戸川乱歩作怪人二十面相ブームを少年の間に呈したことがあつたが、Hはこれに熱中していらい、小学四年生の五月頃になると学業を怠つて欠席し勝ちになつた。そして相変らず、自宅の屋上に上り屋根の上で推理小説を耽読し、怪人二十面相の演技を行なうという按配で、その様子は次第に狂態を呈するに至つた。そこで両親は心痛の末、○脳病院を訪れて診察を受け、その指導の下で、約一〇日間入院の後、通院服薬を続けさせ、その症状は次第に消失して約一年半位で完治したが、斯る事情から以後の就学は停頓したままである。此の病的状態において確実な診断名を得るに至つていないが、性格、体型等の特徴も考慮に入れると、精神分裂病等内因性精神病の露呈と断定出来ないまでも、少く共精神病質的発現に近いという位の推定は可能のようである。
弟T・K当一五歳は、現在、大阪市立○中学校二年生在学中である。知能は普通程度で特殊な性癖もない。体型は闘士体型で、健康も良好、既往に著患を知らない。性格は明朗多弁、楽天的、社交的でしかも温和で、父の性格に近い。
以上、調査し得た範囲では、不詳の点もあるが、被告人の家系について、その他の者について犯罪者、精神薄弱、著明な性格異常および精神病者の存在を否定している。但、次兄Hの病的既往歴および母N子、長兄Mの分裂性々格と称すべき性格特徴や、N子とHとの細長体型という体型特徴等の諸点は、被告人を取り巻く家系的素因的要素として被告人の精神的疾患の発生基礎の一翼たり得るものの如くである。
本人歴
被告人は、昭和二五年二月八日、大阪市西区○○○○×丁目○○○番地に於て、T・SとN子の三男として出生した。当時、父は同所において履物商を営んでいた。その頃の家の経済状態は安定していて、したがつて、被告人も不自由なく養育を受けていた。昭和三三年頃から家産が傾き、昭和三四年一月に現住地に移り住んで今日に及んでいる。小学校、中学校の成績は中位で、昭和四〇年三月○○中学校を卒業した。特殊な性格的特徴が現われてきたのは、小学六年生頃からで、無口で、人付合いをせず、内向的で、悩みごとがあつても打合けず一人で苦しむというような徴候が目立つてきた。小学校卒業後、初め○中学校に入学したが、第一年の二学期中途(一〇月)から大した理由もなく学校嫌いとなり、欠席を重ねて自己退学した。その頃の事情について本人自ら“一年生の二学期中頃から、何となく通学が嫌いになり、欠席し勝ちとなつて、昼食代として父から貰う毎日のパン代五十円を持つて九条の方え映画見に行つたりして遊んでいた。また、夜、駐車しているトラックの中に寝たりしたこともあり、これらのことが知れて先生に叱られ、益々嫌になつて自己退学した”と述べている。当時のクラス担当者の印象も、『一般に気弱で、おとなしく目立たず、友人も少い。原因が判然としない学校嫌いで、欠席が目立ち、原因不明の理由で○中を嫌い他校に行きたいとのことで本学を自己退学し、○○中学校に転校した』となつている。昭和三七年一〇月三一日、○○中学校に転入学した。同校在学中の被告人に対する学校側の見解について主な点は次の如くである。
学業成績……知能指数98、三年間を通じて平均的で上下の変化に乏しく、評点3程度である。社会科学習が幾分得意である。
怠学日数……三年生において、欠席日数四八日(病欠四六日、事故欠二日)と、可成り欠席日数の増加が目立つている。
在学中の性情および行動、態度、交友等……女生徒とは勿論のこと、男生徒とも殆ど話し合つたり、遊んだりすることが見受けられない。授業中の態度はおとなしいが、いつも何かを考えこんでいるような状態である。
同人に対する受持各教師の意見……一年生:落ちつきなく、与えられた課題でも困難であると投げ出し、こつそりいたずらをする。
二年生:おとなしい性質だが、後半は勉強する意欲が見えてきた。
三年生:無口で何事にも消極的であり、孤独で友人も少い。質問にも応じないことがある。 以上
本人の陳述によると、“○○中学に一年生二学期終り頃転入学しましたが、弁当も作つてもらえず、父から昼飯代とバス代とに毎日百円を貰つて通学しました。良い服も着せてはもらえず冷たい親だと思いました。親は自分の学業成績に関心を示してくれず、自分も勉強に熱が入らなかつた。三年生に進級する時進学組と就職組の調査があり、自分は進学希望と答えたが、家では父はどうでもよい態度であり、母は進学する必要ないと反対した。自分は勝手にそれを押し切つたが、進学のために勉強する家庭の机は、古ぼけた坐り机だけしか与えられなかつたので情ない思いがした。そのようなことから勉強に身が入らなくなり、家庭でも面白くなく、テレビでも見てる方がよいようになつた。中学三年生の三学期頃から、家の者と顔を合わせたり、同じ部屋で寝るのも厭になり、二階の押入れに一人で寝るようになつた。そしてその頃から学校の欠席も多くなつた。”と言つている。
昭和四〇年三月○○中学校を卒業し、大阪市立○商業高校定時制に受験合格した。被告人は昼働き夜就学する積りであつたが、間もなく厭になり、入学手続きをしただけで一日も登校せず除籍処分を受け、以後家で日々徒食無為の状態を呈するようになつた。本人の陳述によると、“入学金二千円也を母に頼むと、随分厭な顔をした揚句しぶしぶ出してくれた。合格しても、通学服を新調してくれる訳でもなく、帽子も買つてくれなかつた。教科書は店の金を持出して買いました。そんなことから厭になり、やけくそと親への面当てから、家に引きこんで何もせず、テレビを見たり、新聞を見たりして、徒食する日々を送るようになつたのです。中学卒業後仕事に就かうかと思つた時もあつたが、母に履歴書を書いてくれと頼んでも仲々書いてくれず、ほつたらかしたので仕事に就く気もなくなつてしまつた。その頃になると、父も母も私にどうせよとも何も言わなくなってしまつて、父は朝、仕事に出かける際に水屋の上に五〇円か百円を昼飯代として毎日置いてくれたので、私はそれで昼飯または夕食を食べた。昭和四〇年一〇月頃から自分は人間として失格だと思うようになり、生きるのが厭になり、ただぼんやりと生きている状態が続いていた。昭和四〇年夏頃、死ぬ気はなかつたが自分で帯紐で首を絞めてみたことがあり、昭和四一年春にもタオルで自分の首を絞めて見たが苦しいのでやめたことがある。昭和四一年になつてから、毎朝父が置いていく金をつまらぬと思つて二階の押入れの壁の穴から落したり、便所の中に捨てたり、近くの広場に捨てたり、火でやいたり度々した。その合計金額は二千位にはなろう。
昭和四一年三月頃からは自分で物を買いにゆくのも厭になり、弟を買いにやつていた。”と言つている。
その頃の様子に就いて家人の陳述によると、「折角○商高に合格したのに通学しないので事情を聞くと、中学時代に喧嘩をした相手が○商校にきているから厭だ。その男が卒業したら行くと言うので高校の先生と相談したり、説教したりしましたが遂に行きませんでした。二階の六帖の間の押入れに入つてじつとしている状態ですので、高校へ行かんでも働く気があつたら世話してやるぞと父が言つても返事もせず黙つているという状態でした。しかし口答えも余りせず、乱暴するようなことはありませんでした」と言つている。
以上、被告人の生活歴の概要を述べてきたが、その他の参考事項を追記してみると、身体的既往歴については、出産時は普通であり、母乳で育つた。幼少期にも特異なことはなかつた。その後も健康で、脳疾患頭部外傷や夜尿症、痙攣発作等の症状を示したことはない。嗜好、趣味として飲酒、喫煙の習慣はない。映画、パチンコ、花札、将棋等は好まず、スポーツは不得意である。性交経験は有しない。政治経済等についての定見は無い。
扨、被告人の生活史を要約すると次の通りである。
最も顕著な特徴は、被告人が思春期に入るに至つて露呈してきた性格的特徴である。それは、内向的、非社交的、感情の両極性(敏感と鈍感の同居、飛躍傾向)等を主としたもので、この性格的特徴は、分裂性々格と呼ばれ、正常人の範囲にも見受けられるものである。しかし、被告人の場合はこの性格特徴は年毎に極端化していつたことが推定され、最早、精神病質的範囲に至つていたと思われ、この状態は分裂病質と名付ける。斯る精神病質的性格露呈がある以上、社会生活、学校生活を円滑に遂行することは困難となり、怠学、自己退学、閉居の途を辿つたものであり、後述の如くその頃は丁度精神分裂病の発呈時期に当り、家庭的正常生活も営むことができなくなり、所謂貝殻を閉ぢた如き自閉的生活の日々を送るに至つたものである。
現在症
(一) 身体所見
身長一六五糎、体重五三瓩、胸囲八二糎、体型は、細長型、栄養状態は中等度で、貧血は認められない。頭頸部に異常無く、胸部では心界、心音ともに正常、肺野も聴診上異常を認めず、胸部X線撮影所見も正常である。腹部は平担で、腫瘤、圧痛部を認めず、肝脾を触れない。血圧値一二〇-八〇耗水銀柱、体温三六・二度C、脈博90/分、血清梅毒反応陰性、血沈値七-八耗、尿および屎に異常所見を認めない。肝機能検査異常なし(血清グロス反応(一)、黄疸指数(4))。心電図所見正常。要するに、内科的に異常所見は認められない。瞳孔は左右等大、正円で対光反応、輻輳反応共に異常を認めない。眼球運動も正常で眼振はない。顔面に左右差なく、その運動、知覚は正常である。その他脳神経領域に異常を認めない。上肢では、筋萎縮、筋麻痺、筋強剛は認められず、知覚機能も正常で、手指の振せんはなく、二頭腕筋、三頭腕筋の腱反射も正常である。下肢では、運動、知覚の機能に異常はなく、膝蓋腱反射、アヒレス腱反射ともに正常、バビンスキー反射、足間代等の病的反射を認めない。ロムベルグ症状陰性、アディアドコキネーゼ正常、指-指試験、指=鼻試験正常であり、したがつて運動失調症は存在しない。皮膚反射は、腹壁反射、提睾筋反射ともに正常である。自律神経機能も正常である。脳波所見に異常を認めない。
要するに、神経学的にも異常な所見は認められない。
前記の如く、身体所見としては、内科的、神経学的に異常な所見は見出されなかつた。
(二) 精神所見
被告人は、精神科水間病院に措置入院中であるので、昭和四二年一月三一日迄、その行動を観察し、問診、心理テストを施行し、その精神状態を精査した。
先ず、人院中の行動について述べよう。
初め、個室的処遇を為し、閉扉せず自由に出入せしめるようにし、治療の進行と共に大部屋第3号に収容し、病棟内部の行動に関する限り拘束することをしなかつた。
病棟内における被告人の起居動作の状態は、閉鎖的非社交的態度を対人的態度の基本として持しており、他の患者との自発的交流は認められず、寡黙で孤独な生活を続けた。この基本的態度は、医師、看護人、看護婦や家族等何人に接する時も同様で変りはなかつた。
表情は空虚で硬く、情意の発動に乏しく、所謂喜怒哀楽等の感情や意欲の表現に欠けた状態で、時々、無意味な空笑やぼそぼそした独語を洩らしており、周囲からその意味や内容を窺い知ることが不可能で、彼我の間に、感情的共感や思考過程についての了解を持ち得ず、所謂非疎通性で非了解性な存在を示している。活気なく無為徒食して殆ど一日中入床している状態であり、入院観察期間中において、精神運動興奮の発呈は一度も認められなかつた。即ち暴行、器物の投擲や破壊等の衝動的行動におよんだことはなかつた。食欲良好で、睡眠略々可であつた。
次に問診時における所見を挙げよう。
問診時、表情は空虚で硬く、情意の表出発動に乏しく、時々、無意味な空笑やぼそぼそした独語がある。姿態は一応温和であるが、不自然なぎこちなさが感じられ、その談話状態は、ぼそぼそと低声で抑揚なく語る。疎碍現象(談話の中絶)は殆ど見られない。陳述の態度に、虚飾的誇張的非真実的な所は無いが、彼我の間に、感情的交流が得られず、その思考過程および内容は了解し難い特徴を有している。本件犯行のことに談が及んだ場合、悔悟反省の情が窺われず、異質の病的判断を有していることが判る。
次に、問診を中心として個々の精神機能についても考察しよう。
(問診の問答内容摘記)
(今日は何年何月何日か?何曜日か?)……正答。(生年月日?)……正答。(住所?)……正答。
(主要国の首相大統領名について?)……日本(佐藤首相)、アメリカ(ジョンソン)、英国(ウィルソン)、中国(毛沢東)、韓国(朴大統領)。
(近畿地方の府県名?)……正答。
(今、君がいる処は何処か?その住所?)……正答。
(今日の昼御飯のおかずは何々だつたか?)……正答。
(百円から一三円費つたら残りは幾らになるか?)……八七円です。
(以後残額について順次に一三円宛引いた残額の答を求めるに何れも正答して誤りなし)
(その他、知能判定に資する問答を為すに何れも正答を得た)。
以上の問診によつて理解されるように、意識は清明に保たれており、時、処、自己に対する見当識および記銘力、記憶力も正常であり、知識、計算力も正常範囲内にあると言える。
(人々が何か自分の悪口でも言つているような気持はしないか?)……そんな気がします。
(それは、世間全般の貴君を知らない人までがそんなだと思うか?)……はい、そんなに感じます。
(テレビやラジオや新聞が貴君にあてつけた放送や記事を行つているように思うか?)……はい、そんなに感じます。
(他人があなたを注視する気は?)……します。
(何か身体にピリピリと電波のようなものがかかつてくる気は?)……しません。
(人から監視されているような気は?)……いいえ。
(何か不思議な声を聞いたりすることは?)……いいえ。
(その他類似質問を反復してみるに応答類似している)
(自分の考えが他人に分つてしまうように感じることは?)……それがあります。
(自分の思考や行動が第三者から操られる感じは?)……そうです。
(自分の頭の中で考えたり、読書すると声として聴えるということは?)……はいそうです。
その他類似質問を反復しながら、被告人の上肢を不自然位置に置くに、同一姿勢を持続する。この現象はカタレプシーと称せられ、本人の意思被影響性亢進の証左である。以上の問診から病的体験の存在が認められ、その内容は注察妄想、関係妄想等の一連の関係性妄想を妄想内容としており、幻聴体験を立証しないが否定できない。また、思考奪取、思考化声および作為体験等の特殊病的体験がある。
臨床心理専門家によるテスト要約を挙げる。
<一> 面接所見、表情は硬くて冷たい。感情の表出が乏しい。態度は対座しても面を伏せ勝ちで動きに乏しい。時々口の中をピチャピチャ鳴らす。話しぶりは自ら話しかけてくることは全く無く、問診すれば低い声でボソボソと抑揚なく話す。テスト終了後、事件の内容に触れても全く表情をかえず、“どうにもしようがない”という。
<二> テストの作業ぶり、自発性に之しく憶却そうにやる。作業途上ポケットに手を入れたり、頭髪をひつぱつたり、頭をかかえこんだり等不安定な態度を示す。作業のテンポはむらが著しい。或る時はぼんやりして無為の状態になつたかと思うと、或る時は何かに駆られているようにやり出す。休憩中はしきりに眼をパチパチさせたり、口の中をピチャピチャならしている。相変らず無言で面を伏せがち。言語反応は抑揚なく一本調子である。終了後内省を求めると、“別に何とも感じなかつた”という。
<三> テスト結果の所見
(1) クレペリンテスト
曲線型は異常型に属し、意志緊張の異常があり、特に意志解消が目立つ。知的機能の生産性が低下しており、情意の障害が著しくて、感情、欲求の統制ができにくく、時に無為の状態になるかと思うと、時に興奮状態となつて衝動的行動に走り易いことが認められる。
(2) ロールシャハテスト
思考やや抑制的、常同的である。知的水準は本来普通領域にあつて現実的具体的問題の処理に長じているようであるが現在の処、その効率は低下している。情意面については、基本的傾向としては抑鬱的気分が強く、周囲の状況に対する反応傾向は鈍麻して無関心なところがあるが、他方些細な刺戟で爆発的、衝動的となり易い、全体としてのパーソナリティ像は、内閉的で拒絶症的傾向がやや強い。
以上綜合してみると、本人の人格障碍は著明で意志的行動がとりにくい状態にあり、思考の滅裂、感情の両極性が目立つている。 以上
以上、行動観察、問診、心理テストより得られた精神所見を総括すると次の通りである。
知能の面では正常域に属するが、情意の面において異常が認められる。即ち、情意の鈍麻、自閉症が前景にあり、思考障碍、病的体験を伴つており、しかも精神運動興奮の衝動的可能性を内蔵している状態である。この状態は、精神分裂病の一亜型たる破瓜病型に該当するものである。即ち、被告人の現在の精神状態は、精神分裂病(破瓜病型)に罹患しているものであると診断される。
本件犯行当時の被告人の精神状態
被告人は、昭和四一年一〇月○○日、午後一一時頃本件犯行に及んだものである。その前後の事情についての被告人の陳述の要点を摘記してみると次の通りである。
(あの事件を起したのは昭和何年何月何日何時頃か?)……昭和四一年一〇月○○日午後一一時頃です。
自宅二階六帖の間に私が一人でいると母が帰宅してきました。私は当夜九時頃、何時もの押入に入つて横になると雨がぱらつき出したが、その音を聞いた途端、今夜は都合がよいから(雨の音で叫び声等を消し易いから)母殺しを実行しようと思いました。そこで何時もは開けてある二階の窓を先ず閉めました。そして物音を紛らわすために暑くもないのに扇風機のスイッチを入れました。そこへ母が二階に上つてきて、“暑くもないのに……”等と言いながらスイッチを切り、二階の物干しから洗濯物を入れてくる間に、自分はまたスイッチを入れたのです。母はタンスの前に坐つて洗濯物の整理を始めたので、母の後に廻つて母の首に右腕をまきつけ後へ引き倒した。母は仰向けに倒れ、自分も一緒に倒れたように思う。母を引き倒すと母の左側に膝をついて私の両手の拇指と人示指の間を開き首に押し当て圧えつけるようにして母の顔が蒼白になる迄絞めていましたら、両鼻から鼻血を出しました。この間は一〇から一五分位でしようか。母が死んだと確めてから階下に下り、手を洗いスリッパを履いて交番に行き自首したのです。
(殺害動機について)……昭和四一年初め頃から皆が私に冷たい態度をとる理由は、母が良くない母だし、兄が小児麻痺だから皆が冷たい眼でみるし、よそよそしい態度をとるのだと思え始めた。しかし母は自分にとつて一番大事なものだからとためらつていたが、一〇月○○日になつて急に決心したのです。昼頃、弟の中間試験の問題をみている時、啓示的に自分ではそうしたくないと思うが、絶対的にそうせんといかんようにしむけられた感じで、急に殺さんといかんという感じになつた。(父も殺さねばならないが、母は一番大事だから先ず殺そうと思つたとも述べている。)また、現在の心境は、悪いことをしたと思います。しかし、運命に従わなければどうにもならないのです。(悔悟反省の情が窺われず、異質の病的判断を有しているのがわかる)
以上の被告人の陳述は、警察、検察庁における供述と略々一致するものであり、証人達の陳述内容と略一致している。即ち、本件犯行時における被告人の知的能力は正常で、意識障碍も存在しなかつたことは確実である。但、情意の発動という点において正常と言えない異質なものが推定され、このことは、家族、近隣の人々および学校教師等被告人と接触のあつた人々の陳述によつて、その病的情意の発呈開始は、昭和三九年末頃かと推定され、また、犯行当時の調査記録、昭和四一年一一月一四日大阪少年鑑別所における専門医の診察記録、同日精神科水間病院入院記録および同病院入院中の記録により、被告人が、昭和三九年末頃から精神分裂病に罹患しており、その状態は持続して犯行当時に至り、現在も同じ状態であると診断する事ができる。
総括と説明
被告人の本件犯行時および現在の精神状態は、精神分裂病(破瓜病型)に罹患しているものであるということは前述した通りである。
そもそも精神分裂病とは、内因性精神病の一種で、その原因については、甚だ判然とせず、単一疾患説に対して症候群説もある位であるが、一応、素質を含めた脳生化学的失調に原因を想定しているのが今日の主流をなしている。また、本病は現象学的に、体型は細長型、病前性格は分裂性々格乃至分裂病質と親和性があることが立証されており、被告人の場合は完全に適合している。
遺伝については、疾病の遺伝は多くなく、寧ろ体型や性格の遺伝は屡々容易に認めるうるところである。症状について、病型による差異はあつても、その基本症状は、自閉症、情意の鈍麻を前景とし、思考障害、病的体験(妄想、幻覚、作為体験等)を伴い、徐々に人格荒廃が進行するといつた経過を辿るものである。その発病は緩慢で日立たないので、周囲の人々には、「怠け者になつた」とか「思春期青年の傾向だ」とか程度にしか認識されず、精神分裂病の早期発見が困難な一因となつている。被告人の場合も、家人等の陳述に“精神病と思われる点は思いつかなかつた”と述べているのも、或る程度無理がないとも言えよう。破瓜病型は、この基本症状を代表する病型である。
精神分裂病の症状について逐一解説する煩を省いて、被告人に見出された症状の内、主なるものについて説明を試みる。
<一> 妄想について、被告人の場合、注察妄想と関係妄想が認められた。「他人が自分を注視する」(注察妄想)、「テレビ、ラジオ、新聞等が自分にあてつけた報道をする」「近所の人が四、五人集つて自分の噂話や蔭口を言う」「咳払いで当てつける」(関係妄想等)が突然に確信され、普遍的に発展する。俗に言うひがみの亢じたものに近いが、その差異点は、非了解性で普遍的である。
<二> 幻聴体験について、被告人の場合立証できなかつたが、独言現象は確認しており、その存在を単純には否定し得ない。命令的示唆的幻聴によつて了解不能な衝動行為をおこすことがある。
<三> 作為体験について、被告人の場合、作為体験は明瞭に存在する。所謂させられ現象で、病者は、「第三者が自分の言動、思考をあやつつている」という体験を持つ。したがつて自我意識は減弱し被影響性の亢進があるので、その言動は自主性に乏しく、衝動的に陥り易い。
<四> 感情の両極性について、敏感から冷淡え、愛から憎えというように、極端から極端へ感情が飛躍する。斯る病者にとつて愛する人に直ちに憎悪を抱くという感情が働くことになる。
<五> 滅裂思考について、被告人の書いた通信文を掲示してみよう。
『T様面会有がとう。(注実父宛)
私とT家の間には溶かすことができない大きな氷点ができています。私は今やT家の一員ではありません。私はT家が大嫌いです。あの暗い空気の充満している家庭には死んでも帰りたくありません。どうかT様、私を忘れて下さい。私は病院を出たら共産党の党員となつて無神論を広め、資本主義社会の打倒の一員となりたいと思います。もしそれで死んでも私は満足です、もう面会に来ないで下さい。(中略)
家にじつといた時は、自分には天から与えられた神の力があると思つていましたが、それは現在は想像にすぎないと思つています。私の生きているうちに必ず世界核戦争が起こると確信しています。どうせいつかは死ななければならないのです。
どうかT様、私のことは忘れて下さい。これは私の死をかけての御願いです。(中略)』
正常人の言動が、正常の思路、情意発動および通常体験によつて行なわれるように、分裂病者の言動は、鈍麻した情意、異常な思考過程および特殊な病的体験によつて発動される。但、後者の正常人と異なる点は、著しく不随意、被動的および無批判的であることである。この項に記した知識を基礎として前述した被告人の犯行動機の心理を考案する時、異常心理の機制について理解を寄せることができるのではなかろうか?
即ち、被告人の本件犯行当時における精神状態は、事物の理非善悪を弁識する能力がない状態にあつたものと診断する。
次に、昭和四一年一一月一四日、精神科水間病院に精神衛生法による措置入院して以来の経過について述べる。精神科治療薬クロルプロマジン投与を主とした治療を行なつている。即ち、一一月一四日から五日間一日量一五〇瓱、以後一日量三〇〇瓱投与しているが、中途で薬剤副作用による頸筋硬直が出現したので、補助剤として、プロメタジン一日量七五瓱を伍用している。入院以来、衝動的精神運動興奮の発呈は一度も見ないが、睡眠状態が改善され、情意の鈍麻、自閉症もやや改善を認めている。領識改善され、疎通性も幾分増している。妄想の存在は減弱し、二月初旬には否定する迄に至つた。表情の動きも可成り改善を見ている。
二月初旬にはテレビ観賞に出ているのが二、三度見られた。しかしながら、滅裂思考と作為体験は未だ存在している。
要するに、入院後の治療効果は、情動面ではやや改善を認め、妄想の減退に至つているが、滅裂思考や作為体験を改善する迄には至つていない。
鑑定主文
一、被告人T・Tの本件犯行時および現在の精神状態は、精神分裂病に罹患しており、事物の理非善悪を弁識する能力がない状態にある。
二、右少年に対して今後必要とされる医療措置は、自他に危害を及ぼすおそれがあるので、精神衛生法による措置入院を継続する必要がある。その医療効果は、精神科特殊療法の遂行により、少く共不完全寛解に達せしめて、自他に危害を及ぼすおそれが無くなる程度迄病状の改善を至すことは可能である。
右の通り鑑定する。
昭和四二年二月二〇日
大阪府貝塚市水間五一番地
精神科 水間病院
鑑定人 医師 前崎孝一
本鑑定に要した日数は、昭和四一年一一月二一日より昭和四二年二月一〇日迄の五一日間である。
参考二
大阪少年鑑別所検査医作成の少年に対する健康診査簿
別紙1号様式(乙号) 健康診査簿(精神医用)
<男>・女
ふりがな
氏名
T・T
昭和25年2月8日生
診断 精神分裂症
検査医 杉山佳行<印>
1.特記すべき家族歴および既往歴 2.発病以来の病状および経過概要
3.主要所見 4.治療および予後 5.その他の参考事項
41年11月14日
表情は空虚で奇妙。右かたをそびやかし、左肩を前につきだし且つ首を前につきだしに奇妙な姿勢を常同的にとりつづけており、ボソボソと小声で抑揚なく語る。
10月25日夜、母親を殺したというが、この非行は、分裂症によるものである。
即ち、中学3年頃(39年4月)から、学校で皆が、よそよそしくなり、冷たくなつたという疎外された感情が出はじめ、そのため学校にゆくのもいやだつた。しかし無理に行つてたが、とうとう周囲の、よそよそしい冷い眼にまけて、40年4月高校に入学したが、学校にゆけなくなり、それのみか、外出もしなくなつたという。
41年初頃から、皆が冷たい態度をとる理由は、母が良くない母だし、兄が小児麻痺(長兄)だから、皆が冷たい眼でみるし、よそよそしい態度をとる理由だと考えはじめた。しかし、母は自分にとつて、一番大事なものだからとためらつていたが、10月○○日、意味なく、弟の中間試験の問題をしているとき、自分ではそうしたくないと思うが、絶対的に、そうせんといかんように、しむけられた感じで、急に殺さんといかんという感じがした。それで母親を絞殺したという。
当所に11月12日(土曜日)入所したもので、事件内容の詳細や、それ以前の生活歴等全く不明であるが、本人の体験をたずねたところでは、上記のようであり、「父も殺さなければならないのだが、母親は一番大事だから先ず殺したのだ」と述べており、危険度がきわめてたかいと考えられる。
大阪少年鑑別所
杉山佳行